教養講座 リオリエントと経世済民

教養講座 リオリエントと経世済民

民生委員・児童委員教養講座

 

沖縄市民生委員児童委員協議会

1934年、『災害は忘れた頃にやって来る』寺田寅彦は自然災害への備えこそが日本の自然、社会的な歴史的課題であり「国防」の柱ともなるべきであると述べました。

沖縄での台風は昨年、第87回全国民生委員児童委員大会二日目を、今年の台風15号、19号は去る1017日~18()福島県において開催予定であった第88回全国大会を初日からの中止に追い込んでしまいました。

本年の「地球温暖化」など気候変動に対する論議は、スウェーデンの少女グレタ・トゥンベリさんの呼びかけに世界の若者が応え、行動の輪が広がり、ますます熱くなっています。

明治維新以来、日本人はイギリスとドイツを学校教育の手本として来ました。グローバリゼーションが世界を根本的に変革させつつある現在、沖縄市においては、かつてなく若い世代が民生委員となり「まちづくり」やボランティア活動に参加する中で成長しています。

沖縄市民生委員児童委員協議会は『多世代型民児協づくり』を展開する上で、明治以来の自然・社会・福祉教育の歴史的課題を検証することが要のひとつであると考えます。

以上により、民生委員教養講座を開設し、研修・研鑽を深めるために学習資料を作成します。 発行に御協力いただいた沖縄市まちづくり研究会(岡本朝子代表)に感謝致します。

この小冊子が『健康・福祉・防災に強い沖縄市のまちづくり』と民生委員・児童委員の活動支援になれば幸いです。

2019111

沖縄市民生委員児童委員協議会

『先進的な韓国の敬老堂』

=老人クラブに消極的な男性をひきつけた敬老堂プログラム=

今日、日本社会では高齢者がいかに心身の健康を保つかの議論が盛んだ。

統計でも、社会参加が活発であり人間関係が豊かな程、高齢者の健康状態は良好である事がコホート研究を含む多くの研究で明らかである。

しかし、女性はともかく男性高齢者は老人クラブや老人福祉センターを敬遠しがちで、退職後は家に引きこもり、健康状態の悪化が進む事も多い。そんな中、お隣の韓国では全高齢者の40%が利用する敬老堂という福祉施設があり、その中でも男性高齢者の割合が44%を占めていると言う。

 敬老堂とは朝鮮王朝時代、各地で両班(支配階級)が自宅の一部を家も持てないような下層民に開放した救貧事業が起源だ。敬老堂が高齢者向けの福祉施設に変化したのは1980年代で建物の標準規格が定まり1~3部屋が設置され、内1つはホール対応、それに台所とトイレが兼備された。

2000年以降は「敬老堂活性化方策及び模型化事業」に位置付けられ韓国保健福祉部の公的支援(百億ウォン=10億円)を受け他、政府機関やNpО等から財政支援を受けて①健康活動②社会活動③情報相談④自治という明確な目的が提示されて現在の敬老堂へと至る。敬老堂は韓国全土に五万一千カ所あり、160世帯に1カ所の割合で、敬老堂設置が法的に義務付けられている。

 また、敬老堂は日曜以外、毎日開いている施設も多く食事(昼飯)を参加者が共同で作るのでほぼ毎日人がいる。従って飯の心配がなく、低所得高齢者が朝から夕方まで敬老堂で過ごしていられるのも特徴だ。

 敬老堂では飲酒も認められ、お行儀の良い日本の老人クラブよりも、ずっと俗っぽく伸び伸びしていられる。そして敬老堂では男性が好む活動も多彩で、パソコン、スポーツ、書道、ダンス、囲碁、将棋等がある。特にスポーツは競争が好きな男性の性向に合致し、男性高齢者を引きつけているようだ

 もう一つ、敬老堂に男性高齢者を引きつけているのはリーダー制度だ。

 敬老堂では、各種のサークル活動にリーダーを置き、敬老堂同士の研修などの交流を通じ情報交換し他のメンバーに技術を教えている。これは、男性高齢者にやりがいを与え、リーダーに任命されるのは名誉な事だという。

男性の特性を上手く利用した敬老堂のプログラム、日本でも活用できるように思うが如何だろうか?

(沖縄タイムス「論壇」2019114日掲載)

『リオリエントと経世済民』

いま、アジア経済が注目されている。しかし、かつてアジア経済こそが、400年にわたっての世界経済のセンターだった”

600ページを超える大著「リ・オリエント」において、アンドレ・フランクは説きました。

本書においては、古くから世界経済を支配したと考えられてきた欧州が、実際には、18世紀一杯までアジアに太刀打ちできず、地味なプレイヤーに甘んじていた事が豊富なデータを元に解説されています。

その決定的な要因こそ、15世紀から世界通貨になった銀の動きであり、南北アメリカ、そして日本で採掘された銀が最終的には全て中国に流れ込む衝撃的な図によって明快に示されています。

銀は決済通貨であり、輸出をすれば流入し輸入すれば流出します。

つまり中国は過去400年間、輸出大国であり、陶磁器、茶、絹・綿織物を欧州を含め世界中に輸出し、逆に欧州は中国に輸出できる物がなく慢性的な輸入超過に悩んでいた事が分かります。

欧州に優越した中国インフラの伝統

ではどうして、欧州経済は18世紀中頃までアジアに太刀打ちできず、特に中国を経済的に打ち負かすのが1840年まで掛かったのでしょうか?

その大きな理由としては人口があります。

1400年代の欧州の推定人口は6000万人ですが、同時期のアジアの人口は23500万人と推定され凡そ4倍になります。

特に中国は約1000年前の北宋時代に人口が1億人を超えていました。

しかし、人口は放置しておけば増加するものではありません。

どうしてアジアでは、特に中国では巨大人口を養う事が可能だったのか?

それは、中国歴代王朝が連綿と継続してきたインフラ整備の歴史があります。

史上有名な秦の始皇帝は、七国に分裂した中国を史上初めて統一し運河を掘削し、文字を統一して度量衡を定め、中国全土に軍事道路を巡らし万里の長城を修理増築して匈奴に備えました。

人口爆発を可能にした京杭大運河

また、五胡十六国の350年の戦乱を経て中国を統一した隋は、長安より北の幽州、南の杭州まで伸びる大小運河を掘削・開通しています。

特に、100万人の人民を動員し隋滅亡の原因になった京杭大運河は南北中国を繋げ、華北で増え過ぎた人口が華南に移る事を促進しました。

特に、大河長江に隣接する江南は肥沃で「蘇湖熟れば天下足る」と言われました。

江南での食糧増産をもたらしたのは、新種農具の普及、集約農業、新品種の開発や導入、治水灌漑・農業技術の発達等がありますが、1戸当たりの農地が狭くなると共に精耕細作が進展していき、食べる以外での換金作物が発達していきます。

明清時代になると華北の乾燥化もあり、都は開封から北京に遷移して京杭大運河を通じて、華北・華中・華南が完全に一体化しました。

さらに大航海時代を通じて、中国にはトウモロコシやイモがもたらされます。

これらの農作物は乏しい水資源でも成長したので、灌漑が出来ない土地でも切り開く事が可能になり、清朝末には中国の人口は4億人に達するのです。

中国の巨大人口は歴代王朝のインフラ整備なしには不可能でした。

逆に欧州ではローマ帝国の滅亡後は、小国が林立したので国の力は弱くインフラ整備はカトリック教会を通して小規模に行われ遅々たる進み方であり人口は、中国と比較しても小さい増加に留まりました。

その後、大航海時代を経て新大陸とアフリカの三角貿易で資本を蓄えた欧州は王権が教会権力に優位して中央集権が進み、インフラは国が行うようになり人口の上昇率も高まっていきます。

インフラとは経世済民を意味する

インフラとは、インフラストラクチャーの略で「産業」や「経済」の基盤を意味しますが意味が広く多様な言葉であり、社会資本とも基礎構造、下部構造とも訳されます。

古代の中国には、もちろんインフラ等という概念はありませんが、代わりに「経世済民」という伝統的な統治概念がありました。

経世済民とは、現在では縮めて経済と称されますが、中国・東晋の葛洪の著作「抱朴子」に「經世濟俗」という語が出てくるのが最初と考えられ「世を治め民を救う」というのが本義です。

中国歴代王朝は、人民の生活の安定を社会資本として考えていました。

そして、それは政府によるインフラ整備として歴史には出現したのです。

インフラ整備により中国人民は豊かになり、税収が増えた政府はハード面ばかりではなく、ソフト面でのインフラも開始しました。

北宋の末年である1102年、徽宗は安済坊と居養院を首都開封を始めとして各州懸に置きました。

安済坊とは貧しい人々を治療する無料の病院であり、後者は寡婦や孤児を収容する施設です。また、恵民局という安価で薬を販売する施設を城内五カ所に増やしてもいます。

これらは宋史には、「無駄遣い限りなく、貧者は楽しむも富者は憂らう」とありますが、いずれにせよ、北宋は多くなった税収で無料の病院や孤児院を建てられる程に富裕な財源を持っていました。

富の基盤はインフラの整備にあり福祉政策もまたインフラの一部でした。

アヘン戦争以前から起きていた中国の没落

経済におけるアジアの優越は1757年のプラッシーの戦いでイギリス東インド会社が、フランス東インド会社を倒してインドで覇権を確立し中国に対しては、ベンガルで栽培したアヘンを売り付けて巨富を得ます。

清朝はアヘンを焼き捨てて対抗すると、アヘン戦争が勃発、清朝は敗北しアジアは決定的な没落を経験しました。

ただ中国の没落は、単にアヘン戦争の敗北ばかりではありません。

巨大な人口を持つ中国では、工業の機械化よりも人件費の切り下げで商品コストを下げる方が簡単であり、労働者賃金は極限まで低下していました。

これにより、食べられなくなった失業者が増大、仕事を求めて都市部に農民が流れ込み、土地が放棄されたり地主の土地兼併により、自作農が減少して小作人が増えました。

これにより農業が打撃を受け、社会不安が増した所にアヘンが入り込んだのです。

税収の低下は、清朝政府のインフラ整備を不可能にし災害は続発し中国の経済力は極端に低迷したのです。

現代中国発展の基礎になった毛沢東インフラ

現在、毛沢東の評価は大躍進の失敗や文化大革命による破壊により功罪半ばになっていますが、毛沢東の後継者として改革開放を主導した鄧小平の政策も、また毛沢東のインフラ整備なしには達成できませんでした。

「新中国50年統計資料匿編 」(国家統計局国民経済統合統計1999年)によると、1949年か1978年まで29年の間に中国の総発電量は59.7倍に増え同時期に石油は867倍石 炭の生産量は19.3倍に増 加しています。

文革期の混乱を経ても工業生産は急増、粗鋼生産量は139.2倍になるなど工業総生産が29.8倍化し、これら以外にも鉄道や大学インフラが整備されています。毛沢東の政策はポイントでは中国に打撃を与えましたが、30年スパンで見るとインフラ整備による民力の強化を用意し、改革開放経済の基礎を造ったのです。

結び

福祉はともすれば慈善事業のように受け取られてしまい、財政が苦しくなると真っ先に削減される予算になりがちです。

しかし、福祉も経世済民から考えるならインフラの一部と言えます。

手厚い福祉があってこそ社会資本は充実し、本当の意味で何度も挑戦できる活力のある社会が実現されるのではないでしょうか?

多額の人力と資金を投入し、インフラを守って社会の繁栄を維持した中国王朝の叡智から学ぶ事は多いと思われます。

沖縄市まちづくり研究会事務局次長・石原昌光

=参考文献=

  • 「リオリエント」/著者アンドレ・フランク
  • 北京大学版「中国の文明」/著者:稲畑耕一郎 (監修),  紺野達也 (翻訳)
  • WEBサイト ファーウェイ(HUAWEI)問題とは? | ZTE問題と併せて日本への影響を解説 Digima-出島ー
  • WEBサイト 「中国、国家資本主義の全球化」小林よしのりライジング Vol.296
  • PDF鄧小平と中国マルクス主義 ―マルクス主義と毛沢東が生み出した鄧小平路線― 著者:大西広
  • 都市の社会史ー中村賢二郎編ーミネルヴァ書房 著者:梅原郁
  • PDF国際交通安全学会誌 ローマのインフラから考える Vol30No1著者:森地茂

民生委員・児童委員教養講座テキスト

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2019111日発行 ~